2012.01.05
今年も、のんびり更新します。
よろしくお願いいたします。
いよいよ今月末に2学期の単位認定試験がひかえています。
今回は2科目なので、少し気が楽ですが、気楽といっても手はぬけない科目です。
じわじわと焦ってきています。
学びたくて学んでいるのに、試験前にはいつも慌ててしまい、自分はあらゆることにおいてアウトプットが苦手なのではないかと思う自暴自棄になる今日このごろです。
この試験が通れば、残すところあと10単位なので頑張りたいです。
次年度は、履修予定の10単位のうち、6単位は卒業研究、残りの4単位は面接授業を登録申請したいと思っています。この年末年始に更に研究テーマの学びを深めたいと考えまして、4月から大学院の修士選科生になり、放送授業を登録することにしました。(じつはもうその授業は前から興味があって録画済みです。)
これまでの学び、これからの学びが少しでも、何かの役に立てればと願いをこめてひとつひとつのことにじっくり取り組みたいです。
新しい年に、皆さまの健康とご多幸をお祈り申し上げます。
いよいよ今月末に2学期の単位認定試験がひかえています。
今回は2科目なので、少し気が楽ですが、気楽といっても手はぬけない科目です。
じわじわと焦ってきています。
学びたくて学んでいるのに、試験前にはいつも慌ててしまい、自分はあらゆることにおいてアウトプットが苦手なのではないかと思う自暴自棄になる今日このごろです。
この試験が通れば、残すところあと10単位なので頑張りたいです。
次年度は、履修予定の10単位のうち、6単位は卒業研究、残りの4単位は面接授業を登録申請したいと思っています。この年末年始に更に研究テーマの学びを深めたいと考えまして、4月から大学院の修士選科生になり、放送授業を登録することにしました。(じつはもうその授業は前から興味があって録画済みです。)
これまでの学び、これからの学びが少しでも、何かの役に立てればと願いをこめてひとつひとつのことにじっくり取り組みたいです。
新しい年に、皆さまの健康とご多幸をお祈り申し上げます。
2011.12.24
冷たく空気が張りつめた冬らしい静かな夜に
誰も訪れてはいないだろうと思っていたこのブログを、読んだよと声をかけてくれた人がいて、正直、とても驚きました。
少し恥ずかしいような気もしたけど、なにか心があたたかく嬉しくなったので、今日はちょっとだけ近況を書いてみたいと思います。
ここに訪れてくれて、読んでくれてありがとうございます。
今月は、毎週日曜日と、ほぼ隔週の火曜日の面接授業に出ていました。
来月始めに2コマ残っている面接授業に出席できれば、後期の面接授業は終わりです。
レポートの宿題もふたつ出ていましたが、やっと終わったので、これから後期の放送授業の教材の読み込みと自習型問題をはじめたいと思っています。
今学期は面接授業中心にとっていたので、放送授業は2科目しかとっていないのですが、『現代哲学への挑戦』の自習型問題が手強いことに気づき焦っています。
それと、今頃になって気づいたことがもうひとつあって、それは自分の中で小さな葛藤のもとになっています。
もしかすると大学のシステムの問題とも関わってくるのかなとも思うのですが、自分では今の段階でどこがどう問題があるかはわからないので具体的には言えません。
大学は卒業するところだけど、個人だけで探求を続けて行くよりも継続して繋がりがあったほうがよいだろうなと思っています。
わたしはこれまで教材を教材通りに受け取って単位をとるのには慣れてきたし簡単と思うようにもなってきました。もちろん、科目によってはとても難しい科目もあるけど。
ただ人生には自分が自分のやりたいように探求していくことを更に深めていくやり方の方が、なにか圧倒的によいと思いはじめたのです。
自分が教材を読んで気になったテーマの参考文献などを読み進めて行くと次第にテーマが更にテーマを生んで行くようになり、文献から文献への旅が始まります。
その時々で、旅の記録を残すように、さまざまに思ったことなども書き残していくわけですが、あとで時間が経過した時にその旅録を読んでみたりすると、頭の中に思想の地図ができてくるような気がします。
これこそが自由な「学び」であると思うのですが、大学で単位をとる気にばかりなっていては、この自由な「学び」は妨げられてしまいます。
しかし、個人の探求を続けて行くことにも、所詮個人の知識の範囲内なのだから限界があると思うのです。
具体的には言えませんが、通信制大学においてこの自由な「学び」についてのフォロー(サークルなどをさがせばよいのだろうか)をどう探せばよいものかと、なにか物足りなさを感じ始めました。
インプットにあきたのならアウトプットをすればよいというだけの問題なのか、何か相互作用を求めているのか、まだ自分でもよくわかりません。
たぶん、時期的に、気持ちが滅入っているからかもしれません。
年末年始が過ぎれば、あっという間に単位認定試験がやってくる。
大学に入ってからというもの、この時期――クリスマス・年末年始シーズン――がやってくると毎年のように、どうしてわたしは今わざわざ勉強をしているのだろう…と、さえ思ってしまいます。
いやいや、ただ単に読みたい本を自由に読む時間が欲しいだけなのかもしれません。
それとも、卒業研究履修にむけての不安なのだろうか。
それとも、自分の依存的感情がそうさせるのか。
と、色々考えてみましたが、今はまだ、考えがまとまらなさそうです。
ちょっと気が早いけど、気分をかえて、来期に履修したいと思っている科目をピックアップしてみました。
現代日本社会における音楽(’08)
グローバリゼーションの人類学(’11)
ヨーロッパの歴史と文化(’09)
英語圏の言語と文化(’11)
社会の中の科学(’08) です。このうち、ひとつないし、ふたつ検討しています。
(迷ったときは前向きにやれることを継続してこつこつやってみるのがいいのかな。)
メリークリスマス・イヴ。
素敵な夜を。
そして、良いお年を。
少し恥ずかしいような気もしたけど、なにか心があたたかく嬉しくなったので、今日はちょっとだけ近況を書いてみたいと思います。
ここに訪れてくれて、読んでくれてありがとうございます。
今月は、毎週日曜日と、ほぼ隔週の火曜日の面接授業に出ていました。
来月始めに2コマ残っている面接授業に出席できれば、後期の面接授業は終わりです。
レポートの宿題もふたつ出ていましたが、やっと終わったので、これから後期の放送授業の教材の読み込みと自習型問題をはじめたいと思っています。
今学期は面接授業中心にとっていたので、放送授業は2科目しかとっていないのですが、『現代哲学への挑戦』の自習型問題が手強いことに気づき焦っています。
それと、今頃になって気づいたことがもうひとつあって、それは自分の中で小さな葛藤のもとになっています。
もしかすると大学のシステムの問題とも関わってくるのかなとも思うのですが、自分では今の段階でどこがどう問題があるかはわからないので具体的には言えません。
大学は卒業するところだけど、個人だけで探求を続けて行くよりも継続して繋がりがあったほうがよいだろうなと思っています。
わたしはこれまで教材を教材通りに受け取って単位をとるのには慣れてきたし簡単と思うようにもなってきました。もちろん、科目によってはとても難しい科目もあるけど。
ただ人生には自分が自分のやりたいように探求していくことを更に深めていくやり方の方が、なにか圧倒的によいと思いはじめたのです。
自分が教材を読んで気になったテーマの参考文献などを読み進めて行くと次第にテーマが更にテーマを生んで行くようになり、文献から文献への旅が始まります。
その時々で、旅の記録を残すように、さまざまに思ったことなども書き残していくわけですが、あとで時間が経過した時にその旅録を読んでみたりすると、頭の中に思想の地図ができてくるような気がします。
これこそが自由な「学び」であると思うのですが、大学で単位をとる気にばかりなっていては、この自由な「学び」は妨げられてしまいます。
しかし、個人の探求を続けて行くことにも、所詮個人の知識の範囲内なのだから限界があると思うのです。
具体的には言えませんが、通信制大学においてこの自由な「学び」についてのフォロー(サークルなどをさがせばよいのだろうか)をどう探せばよいものかと、なにか物足りなさを感じ始めました。
インプットにあきたのならアウトプットをすればよいというだけの問題なのか、何か相互作用を求めているのか、まだ自分でもよくわかりません。
たぶん、時期的に、気持ちが滅入っているからかもしれません。
年末年始が過ぎれば、あっという間に単位認定試験がやってくる。
大学に入ってからというもの、この時期――クリスマス・年末年始シーズン――がやってくると毎年のように、どうしてわたしは今わざわざ勉強をしているのだろう…と、さえ思ってしまいます。
いやいや、ただ単に読みたい本を自由に読む時間が欲しいだけなのかもしれません。
それとも、卒業研究履修にむけての不安なのだろうか。
それとも、自分の依存的感情がそうさせるのか。
と、色々考えてみましたが、今はまだ、考えがまとまらなさそうです。
ちょっと気が早いけど、気分をかえて、来期に履修したいと思っている科目をピックアップしてみました。
現代日本社会における音楽(’08)
グローバリゼーションの人類学(’11)
ヨーロッパの歴史と文化(’09)
英語圏の言語と文化(’11)
社会の中の科学(’08) です。このうち、ひとつないし、ふたつ検討しています。
(迷ったときは前向きにやれることを継続してこつこつやってみるのがいいのかな。)
メリークリスマス・イヴ。
素敵な夜を。
そして、良いお年を。
2011.11.02
気づけば11月に。
(はじめに。コメントくださった方、ありがとうございます。コメント機能はお休みしているのでごめんなさい。)
いつの間にか、金木犀の香りがむせかえるように漂う季節が過ぎてしまいました。
いつも通る道なのに、その香りで花が咲いたことにふと気づき、秋晴れと寒々しい秋雨の繰り返しの中にも、ひっそりと蕾を膨らませていたのだなぁと、その命の小さきを目にとどめたくて、時折、その場所にそっと立ちどまりってばかりいました。
近頃は、朝晩の風が少しつめたく感じられるようになったせいか、これまでの歩みよりもちょっとづつ足早になってきているかもしれません。
この前の土曜日は、ドナルド・キーン氏の講演会とシンポジウムに行ってきました。
ドナルド・キーン氏が初めて鎌倉の大仏をみたときの話、満月に照らされた大仏の美しさについての内観と、川端康成氏とのたくさんの思い出話があたたかかったひとときでした。
日本の精神文化を守るということについて、改めて考えさせられました。
また、在籍している放送大学では、新しい学期がスタートし、面接授業をひとつ受けました。『日本映画を彩る俳優たち』です。
授業でとりあげられた日本映画の監督作品のうち、いずれか一作品を選び感想文を書くという課題がでまして、どれにしようか、どれもみたいなぁなどと迷っているうちに2、3本映画を観だしてしまい、書きだすまでに時間がかかりましたが、先週、やっと落着しました。溝口健二監督と小津安二郎監督の作品を、どちらを選ぼうと迷い迷ったあげくに溝口健二監督の『近松物語』について感想文を提出しました。
巨匠の作品を選ぶのも贅沢な時間、教授に感想文を読んでいただけるというのも贅沢な時間です。
今月は、教科書と参考書が指定されている面接授業があるので、これから予習をすすめたいと思っています。
放送授業の中間課題も記述式の試験がひとつあるので、がんばりたいところ。
日常生活と教材を読むので精一杯になりつつありますが、来年度の卒業論文の履修申請が仮決定を受けたので、張り切って、資料集めもはじめています。
また自分の中で何かがひと区切りついたら、更新したいと思います。
2学期も、頑張りましょう。
いつの間にか、金木犀の香りがむせかえるように漂う季節が過ぎてしまいました。
いつも通る道なのに、その香りで花が咲いたことにふと気づき、秋晴れと寒々しい秋雨の繰り返しの中にも、ひっそりと蕾を膨らませていたのだなぁと、その命の小さきを目にとどめたくて、時折、その場所にそっと立ちどまりってばかりいました。
近頃は、朝晩の風が少しつめたく感じられるようになったせいか、これまでの歩みよりもちょっとづつ足早になってきているかもしれません。
この前の土曜日は、ドナルド・キーン氏の講演会とシンポジウムに行ってきました。
ドナルド・キーン氏が初めて鎌倉の大仏をみたときの話、満月に照らされた大仏の美しさについての内観と、川端康成氏とのたくさんの思い出話があたたかかったひとときでした。
日本の精神文化を守るということについて、改めて考えさせられました。
また、在籍している放送大学では、新しい学期がスタートし、面接授業をひとつ受けました。『日本映画を彩る俳優たち』です。
授業でとりあげられた日本映画の監督作品のうち、いずれか一作品を選び感想文を書くという課題がでまして、どれにしようか、どれもみたいなぁなどと迷っているうちに2、3本映画を観だしてしまい、書きだすまでに時間がかかりましたが、先週、やっと落着しました。溝口健二監督と小津安二郎監督の作品を、どちらを選ぼうと迷い迷ったあげくに溝口健二監督の『近松物語』について感想文を提出しました。
巨匠の作品を選ぶのも贅沢な時間、教授に感想文を読んでいただけるというのも贅沢な時間です。
今月は、教科書と参考書が指定されている面接授業があるので、これから予習をすすめたいと思っています。
放送授業の中間課題も記述式の試験がひとつあるので、がんばりたいところ。
日常生活と教材を読むので精一杯になりつつありますが、来年度の卒業論文の履修申請が仮決定を受けたので、張り切って、資料集めもはじめています。
また自分の中で何かがひと区切りついたら、更新したいと思います。
2学期も、頑張りましょう。
2011.09.24
飛んでいるトンボを捕まえるのは難しい
トンボよりもはやく風を読まなければ
トンボよりもはやく俊敏性を鍛えなければ
秋晴れの素晴らしかった今日、子どもの運動会に行ってきました。
長男の参加するプログラムを応援したり、応援合戦をみたり、保護者会のお手伝いをしたりしましたが、大半はまだ未就学の二男が校庭の端を友達と走り回っているのをみながら、ママ友と話しをしながらお茶をのんだりして過ごしました。
二男は、楽しそうによく友達と走り回っていましたが、5歳の子ども同士って特に何か話しをすることなく、ただ笑いながら追いかけているだけで楽しいみたいなんですよね。言葉にしなくてもわかりあえる年頃って素敵だなと思いました。
大人になるとこういう感覚って薄れていくものでしょうか。
言葉にしなければ不安になるようなことってありますよね。今日は、そんなことを書いてみたいと思いました。
今日はほとんど一日中、小学校の校庭にいたので、帽子を被っていたのにもかかわらず頬が日焼けしたみたいで、ひりひりします。また、乾いた校庭の砂が、少し乾いた爽やかな秋風とともに飛び交っていたので、私の身体も少し秋の匂いが染みたみたいです。熱いシャワーを浴びて、とろみのある温泉に浸かりたい。喉も乾いたので、はやくビールが飲みたい。
あ、運動会の話を書きたかったんでした。
私は、子どもの頃、運動会が苦手でした。どうして走るんだろう、どうして競争するんだろうと、直射日光があたる校庭で、じりじりと照りつける太陽にすっかり熱くなった椅子の錆び付いた鉄の部分を触ってやけどしそうになりながら、ぼんやり座って考えているのが苦痛でした。
暑い校庭が嫌で、「係」という職がもらえるようになると進んで保健係に立候補していました。
保健係になると先生方や来賓席があるテントに座れて涼しいし、声を張り上げて応援しなくてもいいし、何よりも真剣に走って転んで擦りむいてきた少年の膝に、消毒液をつけた綿をピンセットでつける瞬間が好きだったからです。消毒液が膝小僧の傷につくとじゅわっと泡が広がり、少年の顔が苦痛にゆがむ、傷に消毒液が染みる瞬間にみとれていました。こういうの何フェチっていうのかな?すこしサディスティックですね。。。
それはさておき、そんな子ども時代を過ごしていたので、自分の子どもが運動会が苦手だっていうのも納得がいくわけで、朝から子どもは嫌がっていたのですが、頑張ってもらいました。
案の定、かけっこでは泣きながら走っていてかわいそうなことをしたかなと思ったのですが、頑張った子どもの姿は輝いてみえました。(親ばかですみません。)
だって、
今日の1年生のこの秋の運動会はこれで終わったし、今日の2年生のこの秋の運動会はこれで終わったし、今日の3年生のこの秋の運動会はこれで終わったし、今日の4年生のこの秋の運動会はこれで終わったし、今日の5年生のこの秋の運動会はこれで終わったし、今日の6年生のこの秋の運動会はこれで終わったのだから。
ひとりひとりのかけがえのない一生のわずかの時間が過ぎていったのだから。
そういった時間というものに思いを馳せながら感慨深く、子どもたちひとりひとりの顔をみると、とても輝いてみえてくるんですよね。
我が子も我が子なりに、自閉症という障害を持ちながらも、頑張りました。
普段、家庭では障害について慣れてきてしまっているので、あまり困難を感じませんが、やはり集団行動となると、色々大変な面があります。
今日も、他の子の支援をうけながら、運動会のプログラムのいくつかを終え、みんなが席にもどってくると、私も、何度か、周りの子と我が子に「がんばったね」と声をかけに行きました。
何度かそんな風に子どもの席の側に立ち寄っていると、子どもの同級生のひとりが私に話しかけてきました。
「○○ちゃん(我が子の名前)、いつからこうなっちゃったの?」
わたしが、ちょっと戸惑いながら、うまれつきだよ、というとまた、
「どうして○○ちゃん、こうなの?」ときくので、今度はわたしが、どういうこと?と聞くと、
今度はその質問してきた子が少し考えて「ええと…」といい、
「どうして○○ちゃん、言葉がわからないの?」と聞いてきました。
わたしは、その問いに
「それはね、本当はだれにでもあることなの。今、聞く前に、○○くん(その子の名前)「ええと…」って考えたでしょう?そういう風に、急には言葉が出てこないよね。言葉って、だんだんあとで出てくるの。出てくることもあるし、すごく時間がかかることもあるの。」と、答えました。
そして、そのあとにどう言えばいいのか考えて、少年の返事を待ちました。
少年は何も答えずに何か考えている様子でした。
私も言葉がそれ以上浮かんでこなくて、(じつは「だから、普通の子が障害のある子に声かけをして助けてほしい」と厚かましくお願いするチャンスだったのかもしれなかったけど、それを逃してしまった、少年にも人間が言葉を使うことの大切さや困難さをもっと伝えてみたかったのに)それ以上何も言えませんでした。
もっときちんとしたことを真っ当に、心をこめて言うべきだったのかもしれなかったと少し後悔を残しながらも。
でも、運動会のプログラムは次にうつっていたし、少年は私から視線をそらしたので、私はその場を離れてしまいました。後悔したけど、少年のところにもう一度戻るのはやめました。
今、振り返ってみると、私は、いつもこういったことを繰り返していて、言おうと思って言えなかったことを後悔してみては、今、言わなくても、今、理解してもらえなくても、いつかきっと理解してくれるだろうと、その場を去ることが多いなと思うのです。
今日は、言わなくても、あとで考えてもらうことで、少年の中に何かが芽生えてくれればいいと思ったし、少年は、また会える日がくるというのもわかっていたので執拗に言いたいことを言うのはやめたのかもしれません。
でも、こう考えることもあります。
このように、あいまいな会話をしたままに別れた直後、人には本当の永遠の別れがやってくることも考えられる、と。いつ何が起こるかわかならいと強く思う今日この頃は、特に、人生が突然終わりを告げることを痛感せずにはいられないからです。ならば……、と、少年には言えなかったことをここに少しだけ書いてみようと思います。
明らかにできている「差」、超えられない壁の兆しについて。
今の世界には、ずっと超えられない壁があることはわかっていたけれど、子どもの頃から「習うより慣れろ」の体験をしていれば、やがて未来には障害のある人にも普通の人は慣れ、その「差」は薄まるはずと信じていたが、やはりこれまでの歴史や親の価値観などできた溝は、更に深まるかもしれないという思いがした。
今の教育だけでは何かが足りない。
教育といっても学校教育や地域教育などがあるけれども、地域教育についていえば、私は自閉症という障害をどう地域の人に説明していいのかわからないし、実際、地域でそういった教育が行われているのかもわからない。
「お子さんにどう接すればいいですか?」と聞かれたことがあり、その人はとても親切に聞いてくれたのだけど、わたしもうまくこたえられず、その人もよくわからないままになってしまったということもある。
認識が足りない、だけではなくて、何かが足りない。
今日は、その何かを考えてみたいと思う。
言葉にすることで理解してもらえるだろうか、言葉にせずとも理解してもらえるだろうか。
まず、我が子の言葉について言えば、たぶん、言葉が発生される前の「概念形成」が遅れているのだと思う。
我が子は辞書的に単語を記憶する能力には長けているのだが、概念というものをひとことで説明するのは難しかったので、(当時はすごく苦労してのだけど、たくさんの単語を書いて、視覚的にそれを囲い、囲ったものに名前をつけるというようなことをしていた)数学の集合の図のようなものをつくり言葉を教えたが、これにより、少しずつ理解し始めてきたのではないかと思う。しかし、我が子の概念形成がされてくるにつれ、世界をわけてみること、秩序を作り出すこと、概念を形成すること、概念形成が遅れていて言葉にならないということが、私には絶対的に悪とも思えなくなってきていた。
日常において、我が子の持つ世界観を味えば味わうほど、この世界は概念を形成するほうが間違っているのではないかとさえ思えてきた。それほどまでに、世界は混沌としているものだ、おそらく世界がはじまるまえから。
しかし、人は世界をわけ秩序を作り出すことで、自分とその仲間たちだけを助け、別なグループとの争いの末に勝ち残ったものグループ達が生き延びて進化してきた。
わけることで進化してきた。
さらに、我が子の世界観を想像すると、自然とのつながりや、身体のひとつひとつの感覚との関係性がとても強く、人はこれを聴覚過敏や共感覚と呼ぶのかもしれないが、私は誰もがもつ人間に本来備わったものであり、ただ我が子には強く残っているのだと思っている。
その力が、原始的な能力だというとまた聞こえが悪いかもしれないが、(それこそ親が子を見下していると思われるのかもしれないが)私は我が子に備わる強い感覚が、現代社会の問題を解決する(とまでは言わなくても、その糸口がみつかるような)平和や共生への希望のようにも見える時がある。
わけられない感覚がある。
なぜなら、この世界には、色々な刺激が多すぎて、人は初心を忘れがちなようにも見えるからだ。
それはつまり、アラン・レネの『ミュリエル』から引用すると
「人はみんな 自分を見失い 人生を複雑にする
その軌跡は 肉体の仮の姿か 夢の実現か 迷いか」
と、言ったように、表面的なものにとらわれすぎて、現代社会における我々は本質的な問題を見失っているのではないだろうかと思うからだ。
強い概念を持つように進化した大半の子どもたちに問われていることが、起源に還ることであるではないだろうか?とは、言い過ぎだろうか。
わけすぎ、ふやしすぎ、みえなくなってきたことへの警鐘。世界はわけてもわからない。
だから、大半の人間ができることはできなくても少し位多めにみてもらおう。
何かを発明、発見できる能力をも持たないかもしれない、誰よりも劣っているかもしれない、協調性にもかけているかもしれないけれど、それぞれがそれぞれの能力を活かし補うことで、支え合い、人類は生き延びてきたのではないだろうか。
それが平和と共生への希望へのひとすじの光だと思わずにいられないし、それが未来へ残したい私の唯一の願いでもある。
つまり、わからないことでも、人は想像力を働かせることにより、知恵を使い、助け合い生き延びてきた。
人は想像することで夢を見るように旅をすることもできるし、想像することで経験したことの無い他人の痛みや気持ちにも共感できるのだ。
誰もがもつ能力の差というものがちょっと強すぎるか、弱いかの違いで、色々な人間がただ存在しているが、自分よりもし劣ると思われる人がいれば、その人を排除するのではなく助けることで、世界が平和に近づくのではないだろうかと、いうのが、今日思い至った「何か」である。
2011.09.18
この夏
この夏はカブトムシをペアで飼いました。
よく行く薬屋さんでもらいうけたものです。
すぐに逃がすことも考えましたが、子どもが喜ぶ姿をみて、飼い始めてしまいました。
メスがたまごを産み、今では何匹か幼虫が育っています。
オスは、だんだん食欲がなくなりはじめ、弱くなってきました。
命短しカブトムシ、どうやって看取ろうかと考えていたある日、子どもが突然、オスを逃がすと言い出したので森に行きました。
少しずつ弱っていたので野生の中でえさをみつけることができるか心配でしたが、子どもが「カブトムシは大きな木がいいんだよ」と言ったので、大きな木の側で虫かごから出してみると、元気に飛んで行ってくれました。
うまく風をつかまえて飛んで行く姿に、思わず後を追いかけたくなるほどでした。
先週は、子どもの保育園で敬老会があったので、私の親と弟が福島からやってきました。
震災後、自分の家族と久しぶりに会えたので、保育園の行事があったことに感謝しました。
敬老会には親と子どもだけが出席することになっていたので、私は弟と一緒に鎌倉の大仏を見学に行き、暑かったのでソフトクリームを食べました。
オバマさんも大仏見学の時に食べたという「オバマッチャソフト」は美味しかったです。
「オバマッチャソフト」とは、抹茶味のソフトクリームなのですが、オバマさんが食べた次の日から名前がかわったようです。ちなみに、抹茶味とバニラ味のミックスだと「オバマミックス」。
これではもうソフトクリームの名前というよりは、プロレス技みたいな気がしないでもありませんが……。
そんな夏(?)を過ごし、数日後の昨日、2学期に使用する印刷教材が放送大学から届きました。
こうなると早いもので、私の夏休みも終わりです。
今までは、強制的に時期が来たから夏休みが終わり読み始めなければならなくなったのではなく、自発的に教材を読みたい一心から、新学期開始の欲求が沸き起こり夏休みが終わったのだと、すぐに教材を読み始めていたのですが、今学期は、今、読みたい本や観たいDVDなどがたくさんあるので、教材を読み始めるのはまだ先になりそうです。
それでも中間課題には既に目を通したので、その問いを温めながら、これからの日常を過ごしてみたいと思いました。また、難しい科目に手を出してしまったかと、少し苦い思いをしながらのスタートになりそうですが、2学期も頑張りたいと思います。
よく行く薬屋さんでもらいうけたものです。
すぐに逃がすことも考えましたが、子どもが喜ぶ姿をみて、飼い始めてしまいました。
メスがたまごを産み、今では何匹か幼虫が育っています。
オスは、だんだん食欲がなくなりはじめ、弱くなってきました。
命短しカブトムシ、どうやって看取ろうかと考えていたある日、子どもが突然、オスを逃がすと言い出したので森に行きました。
少しずつ弱っていたので野生の中でえさをみつけることができるか心配でしたが、子どもが「カブトムシは大きな木がいいんだよ」と言ったので、大きな木の側で虫かごから出してみると、元気に飛んで行ってくれました。
うまく風をつかまえて飛んで行く姿に、思わず後を追いかけたくなるほどでした。
先週は、子どもの保育園で敬老会があったので、私の親と弟が福島からやってきました。
震災後、自分の家族と久しぶりに会えたので、保育園の行事があったことに感謝しました。
敬老会には親と子どもだけが出席することになっていたので、私は弟と一緒に鎌倉の大仏を見学に行き、暑かったのでソフトクリームを食べました。
オバマさんも大仏見学の時に食べたという「オバマッチャソフト」は美味しかったです。
「オバマッチャソフト」とは、抹茶味のソフトクリームなのですが、オバマさんが食べた次の日から名前がかわったようです。ちなみに、抹茶味とバニラ味のミックスだと「オバマミックス」。
これではもうソフトクリームの名前というよりは、プロレス技みたいな気がしないでもありませんが……。
そんな夏(?)を過ごし、数日後の昨日、2学期に使用する印刷教材が放送大学から届きました。
こうなると早いもので、私の夏休みも終わりです。
今までは、強制的に時期が来たから夏休みが終わり読み始めなければならなくなったのではなく、自発的に教材を読みたい一心から、新学期開始の欲求が沸き起こり夏休みが終わったのだと、すぐに教材を読み始めていたのですが、今学期は、今、読みたい本や観たいDVDなどがたくさんあるので、教材を読み始めるのはまだ先になりそうです。
それでも中間課題には既に目を通したので、その問いを温めながら、これからの日常を過ごしてみたいと思いました。また、難しい科目に手を出してしまったかと、少し苦い思いをしながらのスタートになりそうですが、2学期も頑張りたいと思います。